故黒木靖夫氏と”クリエイティブ”に対する私の思い
投稿者:小川 悟
2007/10/29 22:01
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「いいかみんなよく聞いてくれ。私たちは四〇億円もの費用をかけて今ジャンボトロンを作っている。これだけ巨額の金を慈善事業に使おうとしているのではない。目的は一つ、この科学博の場を利用してソニーをPRすることなんだ。ソニーの凄さを日本中に見せつけることだ(後略)」
/『ウォークマンかく戦えり(ウォークマン流企画術)』(黒木靖夫著)より。
――今年、2007年7月12日に黒木靖夫氏が永眠されました。
黒木氏は、ソニーで宣伝部長、意匠部長、クリエイティブ本部長などを経て取締役となり1993年に独立された、20世紀の日本の”ものづくり”、インダストリアルデザイン界を代表するプロダクトマネージャーとして有名な方です。また、黒木氏とともに「ソニー神話」を支えた盛田昭夫氏が亡くなられたのは1999年のことでしたが、著書『大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた』で盟友を弔った黒木氏も、その後を追うようにして逝かれたのでした。
私が黒木氏の名を強く記憶に留めることとなったのは、『つくば科学万博クロニクル』という本と出会ったときからでした。私はこの「万博」が好きで、関連する書籍については少し読んでいたことがあります。
万博という集客装置が放つ独特の雰囲気――、明るい未来社会への希望を抱かせるようなパビリオンの異形な建築デザイン、世界中の文化を一箇所に集約させた箱庭的装置に誘発されてよみがえる幼少時代のノスタルジー、また同時に世界平和に対する漠たる想い、産業のオリンピックと言われることもある企業間競争を煽る競争原理や業績評価(CI、ブランディング構築)の仕組み、そして会期を限定して開催し、終了後はほとんどの施設が撤去され、文字通り”跡地”となってしまう運命にある、まるで夏の夜の花火にも似たあの廃墟的なはかなさに虜になってしまうのです。
私が「つくば科学万博(国際科学技術博覧会)」(1985年開催)を訪れたのは、小学校4年生のときでした。先述の『つくば科学万博クロニクル』は、自宅で保管している当時万博会場で撮影した写真と、その数枚の写真でかろうじて脳裏によみがえる断片的な記憶を補完するものとして何度か目を通したものでした。
その中に、本コラム冒頭のエピグラムにも引用した「ジャンボトロン(通称JT)」について書かれた記事があります。ジャンボトロンとは、「技術のソニー」としての名をさらに世界に知らしめることとなる、万博会場南端に設置された高さ42メートル、幅48メートル、奥行き24メートル、ソニー発明のRGB発光素子トリニライト16万5千個を用いた巨大映像施設で、出展の代わりに施設参加として万博側に提供したものです。
黒木氏は、盛田昭夫氏と共に今のソニーを創始した、科学万博の発起人でもあった井深大氏(1997年没)から、この万博への出展に関するプロジェクトマネージャーを言い渡されたのでした。当時のソニーは、1979年発売の第1号ウォークマンの成功などがありましたが、その「ウォークマン」も黒木氏が開発のプロジェクトリーダーを務めていることから、万博出展という企業PRに関することでもその役が回ってきたのかと思います。
ジャンボトロンは物理的にも、また”科学万博”としての意味の上でも強烈な存在感を示し、まさに科学万博の顔となりました。その製作秘話は今では様々な書籍で知ることができるかと思いますが、当時のソニーの技術とコネクションを最大限に活用した歴史的装置の誕生であったと想像させます。
自社のPRのために、当時のお金にして40億円もの巨費を投じることを決断した黒木氏は、NHKから依頼のあった万博開催前年の大晦日に放映される「ゆく年くる年」でのお披露目に工期を間に合わせるために、科学万博の想定来場者数2,000万人の目に留まる認知だけでは広告の投資効果が悪い、「ゆく年くる年」の視聴率が40%なら他に5,000万人の目に留まると言って、開発関係者を鼓舞するためにそのような話をしたそうです。自ら開発者、デザイナーでありながらコストに対する意識も人一倍強い――、当社のクリエイティブ部門にもそのような気概を求めたいと感じました。
それから、黒木氏の仕事の中でもう一つ大きな仕事と言えば、「SONY」のロゴタイプ制作が挙げられるかと思います。現在使用されているソニーのロゴは、1961年に黒木氏が手掛けられてから改良を重ねていった1973年作のものを34年間も使い続けています。今日、多くの企業に見られる「ロゴ刷新」の話題も絶えなかったと思いますが、この30年以上もの間、黒木氏のロゴを超えるロゴがついに現れなかったそうです。
『ウォークマンかく戦えり』の中で、1961年、まだ黒木氏が20代の頃にソニーのロゴマークを考案する仕事がまわってきたことが書かれています。その際黒木氏が、当時インダストリアルデザインの分野で著名だったレイモンド・ローウィーに頼んだらどうかといった提案をして、一旦は断ろうとしていたエピソードなども書かれています。レイモンド・ローウィーは、20世紀を代表するインダストリアルデザイナーで、日本専売公社(現JT)の「Peace」のロゴタイプや、不二家のロゴマークなどの代表的な仕事があります。
自社のブランドを決定付けるロゴマークを25年間考え続けたという黒木氏は、CI(コーポレート・アイデンティティ)についても言及しています。
私はCIを考える前に、まずBI(ブランドのアイデンティティ)を考えるべきだと思いますし、BIの前にPI(プロダクトのアイデンティティ)をはっきりさせるべきだと思います。(中略)私たちメーカーの場合は、企画から設計・生産・販売にいたるまでに筋の通ったプロセスこそが最高のアイデンティティになるようにするべきなのです。そしてそのプロセスの帰結としての商品に、企業の意志がコンデンスされている、これが私の考えるCIの基本です。
/『ウォークマンかく戦えり(ウォークマン流企画術)』(黒木靖夫著)より。
企業や商品の持つアイデンティティを追求し、コアコンピタンスの本質を理解しているクリエイターは強いと思います。『大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた』の終盤には、「井深、盛田のいないソニーは、もう”違う会社”になったんです」というくだりがあります。今日の市況にあって象徴的なコメントに感じますが、日本のビジネスシーンはそれだけあまりにも偉大な3人のビジネスマンを失ったのかという実感がわいてきました。
私たちにはまだまだ勉強しなくてはならないことがいっぱいありますし、結果も出していかなくてはなりません。インターネットやWeb制作の現場においては、新しい技術について常に興味を抱き続けなければならないし、それを自社へ導入して最終的にクライアントのベネフィットへと繋がるビジネスへの応用を果たしていかなければなりません。顧客満足を追求してゆくことを使命とし、生産管理の徹底に加え、提案とサポートとを均質に提供できるようなフレキシブルな組織である必要があります。そしてその原点には必ず、「ものづくり(創造、クリエイティブ)の精神」が根底にあるべきと考えています。黒木氏の手掛けられてきた仕事を総覧することで、クリエイティブへ対する意欲が高まってくるのを感じます。
当社の行動指針の中に、「常にブランドを創造し発展し続けます」というものがあります。当社のクリエイティブ部門全体が、そうした自社のブランド創造のために自身に何ができるのかを追求し続けるクリエイター集団でいて欲しいと願っています。